世界エイズデー

2014/12/01

HIV・AIDS

t f B! P L
みなさん、こんにちはなのだ。



ベットの上でこんなこと書いてるのもどうかと思うけど、今日は世界エイズデーだったりします。
赤いリボンをシンボルに掲げたエイズとともに生きる運動は、この日本でも知られ始めています。

今年、26年度のキャンペーンテーマは、AIDS IS NOT OVER ~まだ終わってない~です。

Appleが世界エイズデーに向けて、今年もチャリティーキャンペーンをはじめています。
これまでもプロダクトREDと称された商品の売上の一部がエイズ対策事業に寄付されてきましたが、
今回は全ての商品が対象になるそうで、その企業の姿勢に心から感謝の気持ちでいっぱいです。

まだ退院してませんが、ボクも前の相方さんにipadをお願いしたので今から楽しみです。

ちなみにエイズプログラム支援のプロダクトREDのサイトはこちらです。
*オンラインでは一部の商品しか日本からは購入できないようです。

http://www.red.org/en/#apps_for_red_


いまだに世間がエイズにイメージするのは、死の病のイメージではないでしょうか?

病気がコントロールできるようになったとはいえ、投薬してても発症する人はするし、
さまざまな疾患をともないながら闘病を続けていく人だっている。

逆に一生なんともないような人も稀だがいることはいる。

死なない病気と言われるようになって久しいが、
それでも日本におけるエイズの死亡者は毎年50人前後いる計算になるのです。

感染者数からすればエイズによる死亡率は低いように感じられるけど、
そこには投薬することで引き起こされる他の疾患は一切含まれていないという側面があるんだ。

だからかな、いまのエイズは怖くない病気、
感染しても大丈夫だよというアプローチには、ボクは少なからず違和感を感じています。

これはアドボケイトの方々の感染者を守る観点からの活動と、
悲観的な生き方をさせないためのひとつのマジックのようなものかもしれません。

でも弱気な自分としてはすごく有難かった。
その反面、そんなわけはないんだっていまは思うんです。

社会において健常者と勝負したときに、
なにかを諦めながら生きてきた感染者では健常者には勝てない。

そこを意識したうえで、じゃあ挽回するためにはなにをすべきなのか?
と前向きに考えられる余地を残すことこそ大切なのだ。

安易な大丈夫キャンペーンは結局はその余地を奪う行為だということを分かっていない。

これは本当の意味で社会の中での自分を知ったときに、
そのギャップにかえって絶望も大きくなるからだと思うのです。

・・・・ボクはHIV感染者の支援団体とは無縁でした。
ひとりで乗り越えてくるのはものすごいツラかった。

ただ今になって思うのは、医療従事者のかたや公共の機関を
信頼することと、信用することは似て非なるものだということだったりします。

自分の未来を託すことが信頼することなのだから、
自分に合った理解ある人間を見つけることがすなわち信用に繋がっていく気がするのです。

実際のところは、拠点病院の範囲内で、
自分の住んでる自治体の範囲内でというのは、制限があるぶんけっこう難しい。

感染者の多くはプライバシーの漏洩を恐れていて、
社会での立ち位置を制限してしまうような生き方をしてしまいがちになります。

見えざる敵という強い不安や恐怖は、感染者と自分たちは違うという
そんな差異主義的な考えを生み出すということにも繋がっていくと思います。

それから開示された情報はそれこそ自衛手段として用いられるから、
間違った知識は共存していく道を閉ざしてしまうことにもなりかねません・・・・。

エイズデーだからと、なにも特別なことはしなくていいんだ。

エイズを知ることはまず検査を受けることから。
それを知っていただけるだけで感染者のボクも救われます。

・・・・・ならば、感染者はどう生きればよいのか?
過疎地の感染者、地方の感染者、都会の感染者と状況はさまざまです。

日本ではまだ生き方のロール・モデルが極端に少ないと感じてて、
そして将来性のあるゲイの感染者のロール・モデルをボクはまだ見たことがないのだ(汗。

支援者団体の中で活動している感染者は?
と思うかもしれないが、社会基盤のない人はなんら参考にならない。

一見当事者目線だが、HIVウィルスに感染していることを
売りにしているだけとも言えなくもないからだ。

見え隠れする特権意識、その裏ではいまだ難病指定が受けられない
そんな難病が数多く存在する事実がある。

そこには障碍者のヒエラルキーが確実にあって、
そのことに対してボクらは目を背けてはいけない気がするんだ。

国からの支援は受けれるものは国民として受ける権利はあると考えます。
しかし、所得によって変動する支援額を誤解されやすい形で出すのは違和感があるのです。

相手の立場に立つ、偏見や差別を声高に叫んでいるだけでは他の人から理解は得られない。
感染者はなんで支援を受けられるようになったのか、初心に立ち返って謙虚でいるべきなのです。

そんな風に思うや。

でもボクが昔から素敵だなと思ってずっと見ている人がいる。
生き方がね、すげえカッコいいんだ。

スピーカーでありながら、一感染者としての立場を崩さず社会に溶け込もうとしているかた。
感染者の苦悩を知る感染者として、心理相談士として、そして役者としてご活躍されているかた。

お逢いしたことがあるわけではない、
でもこの人たちを知ることができたのはボクにとって財産なのだ。

感染が分かってからずっとこの方たちが発信することに
ボクは勇気づけられてきたように思うんです。

勝手だけど、この方たちの生き方が未来の感染者の道標に
なってくれるはずだとひそかに応援してたりして。

ビビりだから直接は声をかけられないけど・・・・ね。

逆に匿名性の高い場所において、ヤバ種とかいう隠語を使いながら
いまだに生でやってる感染者も一部にはいるから、実際のところ未来に期待はない。

でも読んでる人は誤解しないでほしい。
全体からすればそんな人は本当に少数者でしかないのです。

多くの感染者はいろいろ悩みながらも、日々一生懸命に生きようとしているのだから。

一部の人たちのせいで、感染者全体の権利が危ぶまれているのをそろそろ理解してほしいや(汗。
なぜならゲイ=あなたも同じことしてるのでは?なんて医療関係者が疑心暗鬼になるからだ。

どこで情報収集しているのか知らないが、
医療従事者の人はなぜだかあらかた知ってて困惑するのだ。

それは陰性のゲイの人たちにとっては、ははなはだ迷惑な話でしかないんじゃないかな。
ゲイの世界の閉鎖性は言い換えれば、外界と隔絶しているからこその安心感だったはずなのだ。

なんでもかんでもチクリみたいに開示すれば、
他のゲイの人たちが安心して活動できなくなってしまう。

しかし、いまはインターネットである程度の情報収集ができてしまうのも事実だ。

だが、これ程詳細にゲイの裏側を知っているのは
きっとゲイの誰かが話していることもあるのかもしれない。

だいたい、こんな非リア充のボクにさえ聞こえてくるんだから当然のはなしっていうか。
感染したことでさんざんツラくて惨めな気持ちを味わったのにいつまでそれを続けるのだろう?

語弊がないように言えば、セーファーセックスのお約束のもとで遊ぶのは別に悪いことではない。
元相方だって遊んでたし、感染者だからとなんでも区別されるのは間違いだとも思ってる。

それに、相手のことを考えてスマートに遊ぶほうがいまの時代カッコいいんだよって思うんだ。
感染させないように気をつけることは、それが相手に対する思いやりであり愛情に繋がるからだ。

って、ボク自体はもう二年近くなにもないや。
相方としかしてないし、別れてしまったからこの先二度とないのかもしれないなあ(涙。

ちなみに投薬で検出せずを維持している感染者が他人を感染させる確率はきわめて低いんだけど、
治療が成功してるとはいえそこに絶対はないわけで、もっと自分を大切にしてほしいなって。

複合感染だってあるし、他の性病だってあるのだから。

それと罹患理由いかんに関わらず公共の福祉が適用されるのは、
感染拡大を防ぐためだということ、これは何があっても絶対に忘れちゃダメなんだな。

感染の事実を知らずにいきなりエイズになる人たち。
陰性でありながら感染したがる人たち。
エイズ・HIV患者の10倍は居ると言われる隠れHIV感染者の人たち。

だから感染者なんて減るはずもない。

社会的に忌避されるような疾患とされてきたこの病気。

なにかあれば、スケープゴートとして晒された挙句、
その途端に連帯責任にスライドしがちになっていくのです。

それが例え感染者全体の問題ではなく、個人の責任だとしてもだ。

人が人を社会から排除したいという意識は、
多くの場合は心の中にある強い不安からだとされている。

やみくもな恐れは、自分が感染しているかを知ることから遠ざけ、
治療を受けることからも遠ざけてしまう。

予防にとって重要な役割を果たすはずの検査が
ちゃんと活かされない状況はさらなる悲劇を生みだすんだ。

膿を出す自浄作用の欠如は、もはや啓蒙活動の体をなさないんだということを
あらためて認識しなおさないとなにも変わらないんじゃって思ったりもしています。

だが、ゲイの世界に自浄作用がないのかといえば、、、、ちゃんとある。
だから、ボクらは権利を主張するのなら義務を果たさなければならない。

人は誰しも、見ないフリをすることで自分の居場所を確保する弱さがある。

ボクがそうだ。ボクは自分を守りたくて、見ないフリしてたズルくてどうしようもない人間だ。
それを変えたくて、嫌われるのを覚悟で次世代に禍根を残す鎖は断ち切るべきだと書いてみた。

次の若い子たちにこんな思いをさせたくない。

マイノリティーの中で声をあげるということは、少なくともその均衡を破ってしまうことになる。
煩悶からは倖せを、倖せからは煩悶を、この10年探しては現実からずっと目を背けてた気がします。

人はあからさまに表に出ない心の微妙な機微を察知するのがとても上手い。

だから陰性のゲイの人たちにすら馬鹿にされるいまの現実は、
ゲイコミュニティ全体にすごい迷惑をかけている気がして、
同じ感染者としてとても申し訳ない気持ちになります。

ただ言えることは、感染者がこの先もさらに蔑視されていくのではないのか?という危機感。
こういうことを書くと目をつけられるかもしれないという恐怖がものすごくあった、
っていうかこれを書いた今でも怖いんだ。

だけど、毎年、毎年、12月1日になるたびにデフォルトな啓発活動に
沿ったような記事を書いてもなんだかしょうがないと思った。

だって、先進国で感染者が増え続けているのはここ日本だけだし、
このまま爆発的に増加の一途をたどればいつかは現状の制度も破綻すると思うんだ。

たとえ見せかけだとしても周囲と同じであり続けることの心の葛藤はすさまじい。
無意識の中の闇は、多少違えど感染者であるボクらみんなが抱えているものだと思ったりもする。

いつ暴発するかもしれない時限爆弾。
強い人間でいることのツラさは、誰にも話せないことにも通ずるから
おのずとドンドン蓄積されていく。

そしてもがいていくうちに、年を重ねるごとに、なんかいろいろ壊れていく。
いかに平常心でいられるのか、それがいまのボクの課題でもあるけどこれが本当に難しいや。

この先何十年も頑張って生きようって思うより、
明日ちょっとだけ生きてみようのほうがツラくない。

立ち止まって周りを見渡してみる。

希望、怒り、素直、苦しみ、微笑み、愛情、努力
駅の改札、街角のポスター、コンビニの灯り、傍らの犬たち。

変わらない毎日、変わらない風景がずっとボクを見ていてくれる。

醜さの中にも美しいものがきっとあるんだ。
その一瞬の幸せを感じるために、つまづくのは悪いことじゃない。

人生はそれらの繰り返し。
現実に戦いを挑むのは容易なことではない。

だから人は人を好きになる。

それぞれが、ほんのちょっと勇気を出して、ほんのちょっと理解して、
ほんのちょっと身を律することができれば、エイズをとりまく社会が変わっていく気がするんだ。

正しい情報はひとつしかない。
ほんのちょっとだけでいい、いまの日本の現状を知ってほしい。

一度目は失敗でも、二度目はもはやそれは自らの選択となる。
本当に問題なのは、自分は大丈夫と高を括っている検査に行かない隠れ感染者の人たちなのだ。

だから年に一度でいい、自分の身体を労わるために検査を受けていただければ、
陰性の結果が出たと同時に、自分の健康とパートナーの健康がそこで約束されるのです。

エイズは怖い病気です。だけど早期発見さえできれば予後にだいぶ希望が持てるのです。

みなさんには健康でいてほしい。
健康を失くした人間の戯言ですが、どうか、こんなヤツのようになりたくないと思って下さい。

・・・・・それからどうかお願いがあります。

感染者の多くはみなさんと共存していきたいと
切に願ってる事を頭の片隅に留めてくれたら幸いです。

お礼を言わせてください、ボクはみなさんのおかげで今日も生きています。
ありがとさん。






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